人間にはすでに目に見えている能力と、まだ表に現れていない「隠れた才能」があります。
目に見えている能力とは、既に使われている能力ですから、本人も、また周囲の人もある程度理解できています。
リーダーが組織をマネジメントする際にできることのひとつに、一人ひとりをどこに配置し、どんな仕事や役割を与えれば、生き生きと仕事ができるのかを考えることがあります。
適材適所という言葉が示す通り、その人の能力を見極め、すべての人に最適な役割を与えれば、組織としての成果はきっと最大に近づくでしょう。
プロスポーツチームの監督がスターティングメンバーを選ぶように、一人ひとりの適性を考えて、最適なポジションを充てがいます。
一般的には、属する側の人間が自分の最適なポジションを選ぶことは、なかなかできません。
僕は学校の先生でしたが、学校現場では校務分掌表という役割分担表があり、年度当初に自分の役割を割り当てられます。
一応の希望は聞いてもらえますが、その希望が叶うことはまずありません。
管理職が適当と思われる役割を、組織全体のことを鑑みながら、最適な答えを見つけ出します。それはおそらく、どこの企業でも同じことでしょう。
リーダーは適材適所で仕事や役割を割り当てることができ、組織に属する側はそれを選べません。ですから、このリーダーの仕事はマネジメントする上で、とても重要な役割と言えます。
その人を生かすも殺すもリーダーの采配次第なのです。
そんなとき、個人の実績ベースで仕事を割り当てがちです。
過去に経験してきたことをもとに、役割を与えるのです。
僕も16年間の教員生活は、そのほとんどが「生徒指導」が役割でした。
一度もその役割を希望したことはありません。文化祭などの学校行事を担当したくて希望をしていましたが、一度として叶ったことはありませんでした。
今思えば「適材適所」という視点で見たとき、僕が「生徒指導」の役割を担うことは確かに適任でした。マネジメントをするリーダー層(学校では管理職)が、僕の強みと弱点をよく理解して、配置してくれたのだと感謝しています。
僕が初めて生徒指導主事という「生徒指導」のリーダーを担当したのは、当時市内で最も荒れた中学校でした。校名を言えば、「ああ、あの学校か」と誰もが知っているような学校です。
初任校での任期を終え、初めての人事異動で僕はその学校に赴任しました。身体は大きくありませんし、そんな学校で「生徒指導」をするようなコワモテでもありません。
子どもたちとの人間関係づくりは長けていましたが、こういう役割を担っていると、他校生とも向き合わなければなりません。まったく人間関係のできていないヤンチャな子どもと向き合うのは、なかなか勇気のいる仕事です。
僕にはそのような屈強さもありませんでした。
前任の先生は屈強な保健体育の先生で、生徒指導の世界では、市内でも有名な先生でした。年度の初め、後任に僕が選ばれたのを耳にして、(僕が生徒指導?)と思いました。
当時の管理職が何を思って僕にその役割を与えたのか、今となってはわかりませんがその采配はズバリ的中し、僕は才能を伸ばすことができましたし、教員としての自信もつけることができました。
おかげで、文部科学省から海外赴任をさせていただき、当時世界最大の生徒数を誇った上海日本人学校でも生徒指導部長を務めさせていただくことができました。
マネジメントするリーダーは、発揮されている個人の能力だけでなく、まだ生かされていない「隠れた才能」に目を向ける必要があります。
僕の強みは全体を俯瞰して眺め、結末までの絵が描けることです。
例えば、廊下で生徒同士の喧嘩が起こったとします。
「A先生は喧嘩を止めてください。
B先生はA先生をサポートしてください。
C先生は職員室に連絡してください。
D先生は他の生徒を教室の中に誘導してください。
E先生はA先生の代わりに授業に行ってください」
瞬時にそれらのことを頭に描くことが僕は得意でした。
そして、「話を聞くこと」「文章を書くこと」も好きで得意なことでした。
ですから、全体の指示を出すと同時に、同僚から話を聞いて、校内で起きていることを丁寧にまとめ、管理職に報告をすることを心がけました。
僕の能力を見極め、隠れた才能を引き出してくれたことにより、身体の小さな僕でも、当時市内で最も荒れた中学校で生徒指導の中心にいられたのだと思います。
もちろん、自分の強みを生かし、弱点を補ってくれる仲間の存在があったことは言うまでもありません。
マネジメントするリーダーは、発揮されている個人の能力だけでなく、まだ生かされていない「隠れた才能」に目を向ける必要があります。
「この人にはどんな可能性があるだろうか?」
そんな問いを心の片隅に置いて、人を眺めてほしいのです。
ある年のこと、僕は一人の女子生徒に注目をしました。
学校ではよく「学習班」という小グループを作り、グループ活動をします。
その女の子は、学級内で特別に目立つわけでもない、普通の女の子でした。
ところが、彼女のいるグループの活動は、他のグループに比べていつだって活発な議論が交わされています。
グループが変わっても、グループが変わっても、その子がいるとグループ活動が活性化するのです。
不思議に思ってその様子を近くで眺めていると、彼女のまだ見ぬ才能に気づかされました。
とにかく彼女は意見を引き出すのが上手なのです。
男子生徒の言葉に笑顔でうなづき、「すごーい!」「そうなんだ!」と、彼らの気分の乗せていきます。
他の女子生徒も追随するように、活発に意見を交わしていきます。
彼女は女子生徒にも変わらず、声をかけます。
彼女自身が強烈なリーダーシップを発揮するわけではありません。
周りに指示を出すことは皆無です。
それでも僕の目から見て、このグループは彼女中心に回っているように見えました。
その事象はグループのメンバー構成が変わっても続いていたのです。
ある日の放課後、僕は彼女を呼び、「次の学級委員に挑戦してみない?」と声をかけました。
驚いた表情を見せると、「私、そんなのやったことないし」と固辞しました。
そこで、僕が教室の中で見てきた事実を伝え、「あなたには学級のリーダーが十分できるだけの力がある」という僕の「評価」を伝えました。それと同時に、「級友のサポート」が十分に得られるよう配慮することも約束しました。
学級をマネジメントする僕の「評価」を「期待」を添えて伝え、彼女の不安を解消するための「支援」を「約束」した上で、新しい「役割」にチャレンジさせました。
勇気を出して立候補した彼女を、級友たちも適任だと感じたのでしょう。投票の結果、学級委員に選ばれました。
ですが、リーダーに選ばれたからと言って、彼女が大きく変わることはありませんでした。
先頭に立って指示を出すなんてことはありません。
いつも笑顔で「みんな、どうする?」と話すばかり。
ですが、面白いもので、みんなが積極的に意見を言うようになり、自発的に行動するようになったのです。
周りを乗せ、巻き込むのがうまい。そんな強みを生かして学級のリーダーを務めました。
従来の「指示を出す学級委員」というリーダー像とはかけ離れた、みんなを巻き込むリーダーとしての立ち回りを見せてくれました。
実は隠れた才能というのは、本当に隠れているわけではありません。
才能は誰にでも存在し、常に使われています。
しかし、言語化されていないため、周りの人も、そして本人も無自覚なのです。
リーダーは、一人ひとりの「才能」に敏感でありたい。
そして、「才能」に気づいたときは、素直に評価し、言葉で伝えてあげることが重要です。
本人が無自覚だった才能にいち早く気づき、それを伝えてあげるだけで、リーダーに対する評価は高まります。
「毎朝、○○さんは教室に一番に来て、窓を開けてくれてるんだよ」
「この前、重い荷物を持っている○○さんをね、○○くんが助けてくれてたんだよ」
例えばそんな些細な行動であっても、その人には「他者に親切にできる」という才能があるわけです。
その優しさを生かすことができる役割がきっとあるはずです。
隠れた才能に気づき、それを言葉で伝え、その才能を生かせる役割を与えていきます。
すると、その人は才能を生かして大きく成長しますし、何よりあなたに大きな感謝の念を抱き、それはリーダーへの信頼につながるのです。