待つべきか、待たざるべきか
Aさんは友人3人と昼食に出かけました。
美味しいお蕎麦屋さんで、ランチを食べた後、職場までテクテク歩いて帰ってきました。
途中、Aさんは美味しそうな「おむすび屋さん」を見つけました。
お昼ご飯を食べたばかりですが、小腹が空いたときのために、おむすびを買うことにしました。
友人たちが口々に言いました。
「へえ、おむすびか。でも、ご飯食べたばかりだからいらないかな」
「じゃあ、先に戻っているね」
そう言うと、友人たちはそそくさと会社に戻ってしまいました。
Aさんは心の中で(待っててくれても良いのにな…)と寂しく思いました。
待つのは優しさ、待たぬのは?
さて、この話を読んであなたはどう感じたでしょうか?
待たない友人を「ひどい人だ」と感じたでしょうか。
「私なら待ってあげるのにな」と思ったでしょうか。
もしくは、「そんなの待たなくていい!」と思ったでしょうか。
「私もそんなの待たないな」と思ったでしょうか。
おそらくAさんを「待つ人」と「待たない人」の割合は半々だと思われます。
さて、ここで大事なのは待たなかった人たちの意見です。
彼らは異口同音につぶやく。
「俺だったら、待っててくれた逆に気を遣うから先に行っててほしい」と。
そうなんです。
相手にいらぬ気を遣わせたくないから待たない。
待つ人たちにとって、待つことは優しさであり、待たない人にとって待たないことは優しさなんですね。
気遣いのできない部下にイライラ
気遣いって、絶対的な定義はないんです。
その気遣いで、相手が喜ぶか。
それは人ぞれぞれです。
「待つ人」にとって「待ってくれる人」は良い人で、「待ってくれない人」は冷たい人。
「待たない人」にとって「待ってくれる人」はお節介な人で、「待ってくれない人」は普通の人。
そんな視点で相手の行動を眺めてみれば、相手がどういう行動をしたら喜んでくれるかも見えてきます。
人は基本的に自分がされてうれしいことをしてあげます。
問題は自分がされてうれしいことは、すべての人がうれしいわけではないこと。
相手が喜ぶことは何なのかを、行動する側は考えたいものです。
そして、部下や生徒や選手に「気遣い」が感じられないとき、もしかしたらそれはあなたと彼らの価値観が違うだけかもしれません。
そんな視点で、他者と接してみてください。